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2015年 第3期 聖書の宣教師たち
第13課 全世界が耳にする必要があるのか
河原 久
●飛行機に乗って眼下に広がる街並みを見ていつも溜息つき思う。「こんなにも多くの人に果たして福音を宣べ
伝えることができるのだろうか。伝えられなかった人はどうなるのか」と。伝道の業にたずさわる者なら今週の「ぬぐいがたい疑問」は胸に秘めていた疑問である。それはp88の「神を知ることなく眠りについた何億という人々を神は裁きの日にどう扱われるのか」の疑問である。
●救いに関して4つの考え方が紹介されている。 A)万人救済論 B)宗教多元主義 C)宗教排他主義
D)宗教包括主義 この4つを知ることによって、聖書の福音を知る私達はこのいずれかをもっているのか考え、上記の「ぬぐいがたい疑問」に迫る。
■万人救済論…「神は、人間の魂を滅ぼすことなく、最終的にすべての人をーたとえ彼らが何を信じ、どのように生きようともー救ってくださるだろう」との論。第二の死も滅び、裁きもない。主張の聖句はヨハネ12:32。この論より“人間の魂は不死である”が生まれやすい。
■宗教多元主義…さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら、共存していこうとする姿勢。すべての宗教は等しく有効であり、神と救いに等しく導くものである。すべての信仰は根底において同じことを教えており、どの道を行っても最終的には頂上に達する。「自分の確信に従って信じていればいいんじゃない。どの教えもそれぞれ真理を含んでいるんだよ」的。だから、他宗教の教えについて大目に見るので、自分が信じていることをさほど他人に伝えようという気持ちは薄い。
■宗教排他主義…一つの宗教教理だけが真理であり救いをもたらすという教義。その宗教の者のみが天国へ行き、他は滅びる。自分の絶対的優位性を強く主張し、他の教えの価値は一切認めず、他は「無価値・偽り」とみる。主張の聖句:使徒言行録4:12「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は…」
■宗教包括主義…他宗教、他教義を表立って攻撃せず、その教えに一定の価値があることを承認し、尊重する。しかし、自宗教、自教義の絶対的優位性への信念は放棄しない。他宗教他教義の中に、真理の契機(きっかけ)は認めるが、それらは真理の一部、あるいは不完全な形に過ぎないと考えている。
★さて私たち(教会)はこれら4つの中のどれであろうか?どれであるべきか?かつてはどれであったか?考えよう。もちろん私たち(教会)は包括主義のキリスト者である。
●p89に一人の消防士によって救われた人の例話がある。面白い例話である。つまりキリストによって救われた人の中には、2種類の人がいるのである。1)自分が誰(キリスト)によって救われたか分かっている人々。2)自分が誰(キリスト)によって救われたか分かっていない人々、この2種類である。この2)の人がなぜキリストのことを知らなくても救われたのかが、ローマ2:12~16とp89の『各時代の希望』下108の文によって紹介されている。
★このローマ2:12~16を読んで考えよう。
「たとえ律法を持たなくても(知らなくても)律法の命じるところを自然に行えば、義とされ、救われる」 ん~、確かにキリスト教知らなくても立派な人いるなあ~。でもふと思う。つまりそんな人は、結局行いによって救われるのかと。そんな人立派な人でも罪は犯しているよなあ~。そこのところどうなんだろう~。やはり結局は、人はこんな人もどんな人でも神様の憐れみと恵みによって救われるのだよなあ~。
でもこのローマ2章のコースで救われるのは、私は全く自信のかけらもない。だから、罪人の一番確実な救いのコースは、罪びとであっても信じ受け入れれば、確実に、確実に救ってくださる。このコースで我々は救われる。だからこそ、この一番安心できる「十字架信じるコース」を、飛行機の眼下に見える人々に伝えていかねばならないのである。