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2015年 第3期 聖書の宣教師たち
第13課 全世界が耳にする必要があるのか
1.はじめに
今期は聖書に登場(とうじょう)する宣教(せんきょう)に携(たずさ)わった人たちについて色々学びました。私は、かの7人の一人フィリポの記事(きじ)(ガイド10課)が心に残りました。彼は福音(ふくいん)宣教師(せんきょうし)として召されていませんでしたが(はじめは教会の日々の配給のお世話(せわ)をする仕事のために任命(にんめい)された)、神の導きによって色々な所に派遣(はけん)されることによって、福音宣教者と呼ばれるようになりました。どんな立場(たちば)にいてもイエス様のことを熱心に伝えるそんなフィリポのことが印象(いんしょう)に残りました。わたしもそのようになりたいと思いました。
話し合いましょう(考えましょう)
あなたは、どの宣教師(ガイドで示(しめ)された人たち)が印象に残りましたか?
また、どんなところが心に残りましたか?
2.世界宣教において起こる疑問(ぎもん)
主は世界に福音を伝えるように命じられましたが、あらゆる時代を通(つう)じて、何百万もの人々が聖書の救済(きゅうさい)計画(けいかく)を知らずに死んで行きました。そこでわたしたちには疑問(ぎもん)が起こるのです。第一に、真の神を知ることなく死んだ人々を神は裁(さば)きの日にどのように扱(あつか)われるのか?また第二に、イエスによる救済計画を知ること以外に救いはあるのか?
今週のガイドはこの二つの疑問に焦点(しょうてん)をあてて、研究が進んで行きます。
3.第一の疑問(神は人をどのように裁(さば)かれるか)を考える
神様が示される原則(げんそく)は、レビ記の中に記(しる)されています。(レビ18:5)
「わたしの掟(おきて)と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」
パウロは、この原則を次のように解説(かいせつ)しています。(ロマ2:13-14)
「律法(りっぽう)を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行(じっこう)する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人(いほうじん)も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」
エレン・G・ホワイトの言葉(『各時代の希望下巻』108-109p)
「異教徒の中には、知らないで真の神を礼拝している人たち、すなわち人を通して光を与えられたことのない人たちがいるが、それでも彼らは滅(ほろ)びないのである。彼らは書かれた神の律法については無知(むち)であるが、自然を通して語りかける神のみ声を聞き、律法に要求されていることを実行した。彼らのわざは聖霊が彼らの心に触(ふ)れた証拠(しょうこ)であって、彼らは神の子として認められる。」
4.排他主義(はいたしゅぎ)に陥(おちい)らないように
使徒言行録4章12節には、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と、救いはイエス・キリストによるとはっきり記(しる)されています。だれもがイエスを通してのみ救われるのです。しかし、イエスの名前や救いの計画を耳にしたことがあったかどうかには関係しないのです。3.で解説(かいせつ)した通りです。イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)とおっしゃいました。
神道(しんとう)や仏教(ぶっきょう)を信じていては救われない。キリスト教を信じないと救われない等(など)と、物事(ものごと)を排他的(はいたてき)に捉(とら)えることのないようにしましょう。
【言葉の解説】排他(的)とは、自分(の仲間)以外の人や思想を絶対に受け入れないこと。
5.万人救済説(ばんにんきゅうさいせつ)と多元主義(たげんしゅぎ)の間違(まちが)い 9月22日(火曜日)から
万人救済説では、神はすべての人を愛しておられるので、人は福音(ふくいん)を耳にしなくても、福音を信じなくても一人も滅(ほろ)ぶことはないと考えます。
多元主義とは、すべての宗教は等(ひと)しく有効(ゆうこう)であり、神と救いに等(ひと)しく導くという考えです。どの宗教も神への有効(ゆうこう)な道であり、キリスト教信仰をそれ以外の信仰を持つ者たちに押し付けようとするのは極(きわ)めて狂信的(きょうしんてき)であり、傲慢(ごうまん)だと考えるのです。
間違いなく、万人救済主義も多元主義も聖書に反しています。すべての人が救われるわけではありませんし、すべての信仰が救いをもたらすわけでもありません。(ガイド91頁)
6.宣教(せんきょう)の動機(どうき) 9月23日(水曜日) から
「暗(くら)やみから驚くべき光に招き入れられた教会員たちは、神の栄光をあらわさなければならない。教会はキリストの恵みに富んだ宝庫(ほうこ)であり、教会を通して神の愛がついには『天上(てんじょう)にあるもろもろの支配(しはい)や権威(けんい)』に対してさえも十分明(あき)らかに示されるのである。」(『患難(かんなん)から栄光へ』上巻1p)
神の目的は、罪と反逆(はんぎゃく)が人類にもたらした荒廃(こうはい)と最終的(さいしゅうてき)な永遠の死から人間を救うことです。(ガイド92頁)人間を救いたいという神の強い願いが福音の本質(ほんしつ)です。福音を伝える私たちの動機(どうき)は、この神の愛に動かされるからです。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆(か)り立てているからです」(Ⅱコリント5:14)